帰ってきたのに、また思い出す
夜、部屋に戻る。鍵を閉めて、靴を脱いで、いつものように電気をつける。 カバンは床に無造作に置いた。丁寧に片づけるほどの元気は、残っていない。
ソファに腰掛ける。背中が沈む。 そこで初めて、今日が終わった気がした。
ネクタイを引っ張って緩める。まだ完全には外れていない。 中途半端なところで止まって、首元だけが少し苦しい。

それなのに、手が止まる。 ネクタイより先に、思い出してしまう。
昼間の、あの一言を。
その場では、笑って終わらせた
会社では、社会人として当たり前の顔ができる。 軽く返して、空気を崩さずに、場を流す。
悪意があるわけじゃない。相手も深い意味はなかったのだと思う。 それが分かるからこそ、こちらも笑える。
「そうですね」 「まあ、そんな感じです」
そう言って終わらせた。その瞬間は、自分でも上手くやったと思った。
でも今、ソファに沈んでいると、その会話の端っこだけが、妙にくっきり浮かぶ。 笑ったはずなのに。終わったはずなのに。 首元のネクタイみたいに、まだ少し引っかかっている。
気にしないふりは、静かに積み重なる
疲れの原因は、言葉そのものじゃない気がする。 むしろ、言葉を受け止めた自分を、その場で置き去りにしたことの方が残る。
「気にしていない」 そう振る舞うのは、もう慣れている。波風を立てない大人のやり方も、身についた。
でも、その便利さの裏で、自分の中の小さな反応が、行き場をなくす。
行き場をなくしたものは、消えない。ただ、音を立てずに残る。 そして家について静けさの中で、遅れてじわじわと効いてくる。
ネクタイを外しかけのまま止まっている自分が、それを証明している。
いちばん疲れるのは「二重に抱えること」
気にしないふりをするとき、自分は二つの作業を同時にしている。
ひとつは、相手に合わせる作業。 もうひとつは、自分の反応を押し込める作業。
この二つが重なると、思っている以上に疲れる。
怒っているわけじゃない。泣きたいわけでもない。 ただ、ちょっと引っかかっただけ。
それなのに、引っかかった自分に対して「そんなことで」と片づけてしまう。 その瞬間、疲れが増える。 相手の言葉より、自分が自分を雑に扱ったことの方が残る。
自分を置き去りにしない
「気にしないふりで疲れるのは、気にしている自分を置き去りにしてしまうからだ」
「気にしないふり」を完全にやめる必要はないと思う。 世の中は、いちいち反応していたら回らないし、自分も毎日戦いたいわけじゃない。
ただ、ひとつだけ。 ふりをしたあとに、心の中で小さく確認する。
「今、ちょっと引っかかったな」
それだけでいい。 誰かに言わなくてもいい。説明しなくてもいい。 ただ、自分の中で“あったこと”にする。
ネクタイを最後まで外して、深く息を吐く。 カバンが床に置かれたままでもいい。今日を丁寧に片づけられない日もある。
でも、自分の反応だけは雑にしない。 それができると、疲れの質が少し変わる。
気にしないふりは外側の技術。自分を置き去りにしないのは、内側の技術。
静かな部屋で思い出してしまったことは、きっと“弱さ”ではない。 自分がまだ、ちゃんと感じているだけなのだと思う。



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