静かすぎる部屋
夜、部屋に戻る。鍵を閉めて、靴をそろえて、電気をつける。 いつも通りの動作なのに、その日は、ひとつひとつの音がやけに目立った。
鍵が回る音。ドアが閉まる音。上着がこすれる音。
誰かがいるわけではない。テレビもつけていない。 部屋はきれいに静かで、落ち着くはずの静けさだ。
それなのに、その静けさが少しだけ“重い”と感じる夜がある。
音がないわけではない。時計の針が進む音が、遠慮なく聞こえる。 それは普段は気にも留めない小さな音なのに、この夜だけは存在感が大きい。
静けさが、部屋の空気を満たしている。 そしてその静けさが、「落ち着け」と言うより先に、「今の自分を見て」と言ってくる気がした。
音がないと、心の音が聞こえる
若い頃は、静けさを歓迎できた気がする。 一人の時間は休息だった。誰にも邪魔されず、好きに過ごせる自由。 それがそのまま、安心につながっていた。
でも今は、静かすぎると自分の中の小さな声が浮かび上がってくる。
「今日、何が楽しいことあった?」 「最近、笑ったことあった?」 「このままで本当にいいの?」
はっきりした言葉ではない。でも、確かに“問い”のようなものがある。
忙しいときは気づかない。昼間は忘れられる。 でも夜の静けさは、逃げ道を作ってくれない。 言い訳がきかない分、心の中の音だけが、そのまま残る。
静けさは落ち着くはずなのに、落ち着く前に、自分の本音だけが先に聞こえてしまう夜がある。

一人は気楽。でも、たまに寂しい
一人の生活は、気楽だ。 誰にも合わせなくていい。説明しなくていい。機嫌を取らなくていい。
「今日は疲れた」と言うことも、「今日は何もしたくない」と思うことも、誰の許可もいらない。 同僚が「家族がいるから大変だ」とこぼすと、独り身の気軽さがありがたく感じる。
その代わり、気持ちの置き場所も、全部自分で決めることになる。
落ち込んだときに、誰かに見つけてもらう機会がない。 元気なふりをしても、止めてくれる人はいない。
帰ってきた部屋が静かすぎると、その自由が急に心細く見えることもある。 気楽さと寂しさが、同じ場所に並ぶ。 どちらかだけではない。矛盾しているけれど、たぶん、そういうものだ。
静けさは、責めてこない
静かすぎる部屋で聞こえる“自分の声”は、説教みたいなものではない。 「もっと頑張れ」でもない。「ちゃんとしろ」でもない。
ただ、確認してくるだけだ。 「今、どんな状態?」 「疲れてない?」 「無理してない?」
誰かに言われると反発したくなることでも、自分の声なら、少しだけ聞ける。 傷つけるためではなく、放っておかないために聞こえてくる感じがする。
静けさは、責めてこない。 責めてこないからこそ、こちらも逃げずに済む。
重いのは、静けさのせいではなく、静けさが“置き去り”を見つけてしまうからなのかもしれない。
答えを求めない
「静かすぎる部屋で聞こえたのは、寂しさじゃなく、置き去りにしていた自分の声だった」
その声に、すぐ答えを出さなくていい。結論を出せなくてもいい。 「今日は静かすぎた」「今日はちょっと重かった」 それに気づくだけで、十分だと思う。
もし少し余裕があるなら、音楽を流してみる。お湯を沸かす。 好きなマグに温かいものを入れる。短い散歩に出る。 何かを変えるというより、“今の自分”が沈みすぎないように整える。
静けさの中で聞こえた声を、乱暴に消さないこと。 聞こえたことを、なかったことにしないこと。
それだけでも、明日の部屋の静けさは、少し違って感じられる気がする。



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