【50代の気づき②】忙しくないのに、なぜ疲れる?

50代の気づき

忙しいわけではないのに

昔のように、スケジュール帳が真っ黒に埋まっているわけではない。 むしろ、日々は波風なく、たんたんと過ぎていく。

それなのに、夕方になり、窓の外が薄暗くなる頃には、どっと疲れが押し寄せてくる。 今日一日、何をやったかと思い返しても、これといって大きな出来事は思い出せない。 誰かと激論を交わしたわけでも、重い荷物を運び続けたわけでもない。

ただ、静かに一日を過ごしただけ。 なのに、ソファに腰を下ろすと、もう立ち上がるのが億劫になるほど体が重い。 「今日は一体何をして消耗したんだろう」 そう自問しても、答えは見つからない。 謎の疲労感だけが、冷めた紅茶のように体の底に残っている。

その正体がわからず、少し戸惑うことがある。

体力だけの問題じゃない気がする

「歳をとったから」 「体力が落ちたから」 そう片付けてしまえば簡単だし、周りもそう納得するだろう。

確かに、階段の上り下りや、徹夜ができなくなったことは事実だ。 けれど、この疲れは少し質が違う気がする。 睡眠はとれているし、健康診断の数字も悪くない。

若い頃の疲れは、もっとシンプルだった。 全力を出し切って「ガス欠」になるような、ある種の爽快感さえある疲れだった。 一晩ぐっすり眠れば、翌朝にはリセットされていた。

でも、今の疲れは違う。 筋肉が痛むのではなく、頭の奥がズーンと重い。 体よりも、気持ちのほうが先に摩耗して、ささくれ立っていくような感覚。 何かが「枯渇」していくような、静かで深い疲れだ。

50代の疲れの正体は「処理疲れ」

ふと気づいたことがある。 50代になると、表には出ない“考えごと”が膨大に増えていることに。

仕事の段取り、老後の資金、親の介護、自身の健康への漠然とした不安。 一つ一つは緊急の課題ではないかもしれない。 けれど、それらはスマートフォンのバックグラウンドアプリのように、常に脳の裏側で起動し続け、エネルギーを食っている。

何もしていないようで、実はずっと脳内で “選択”“処理” を繰り返しているのだ。

たとえば、スマートフォンを見るだけでもそうだ。 流れてくるニュースの見出しを見て「読むか、読まないか」を判断する。 届いたメッセージに対し、「今すぐ返すか、後でにするか」「どんな言葉なら角が立たないか」と思案する。

買い物に行けば、「今日は何を優先するか」「健康のために塩分を控えるべきか」「でもたまには好きなものを食べたいか」と葛藤する。

「どっちでもいいこと」ですら、私たちは無意識に決断し続けている。 若い頃は勢いや直感で押し切れていたことも、経験を積んだ今は「失敗しないように」「誰かを傷つけないように」と、慎重にシミュレーションしてしまう。

この小さな決断の連続が、知らず知らずのうちに脳のメモリを圧迫しているのだ。

小石が積もれば山となる

ひとつひとつの選択は、靴の中に入った小さな小石のようなものかもしれない。 最初は気にならない。 でも、朝から晩まで歩き続ければ、その違和感は無視できない痛みになる。

夕方のあの「どっとくる疲れ」は、今日一日、あなたが無数の選択肢の中から「最適解」を選び続け、脳のアクセルとブレーキを細かく踏み分けた結果なのだ。

それは、体を動かすよりも、ある意味で過酷な労働かもしれない。

無理に元気にならなくていい

だから、疲れている自分を 「気合が足りない」「最近怠けている」と責めなくていい。

50代の疲れは、弱くなったからではない。 これまで積み重ねてきた責任の重みと、 複雑になった日常の中で、懸命に舵を取り続けている証拠なのだ。

「疲れた」と感じたら、それは「もう今日は決断したくない」というサインだ。 そんな時は、夕飯の献立を考えるのをやめてもいい。 返信を明日に回してもいい。 ただぼんやりと、情報の流れてこない静かな時間を過ごしてもいい。

疲れは、悪者ではない。 「今日はもう十分に頭を使ったよ」という、自分を守るための安全装置なのだから。

答え合わせ

忙しくないのに疲れるのはなぜか。 それは、体力ではなく、頭と心がずっと見えない“選択”を続けていたから。

疲れに名前がつくと、少しだけ扱いやすくなる。 「ああ、これは選択疲れだな」 そう思えたら、今日はもう迷うのをやめて、早めに休もう。

今すぐ何かを劇的に変えなくてもいい。 ただ、自分の疲れの正体に気づいてあげる。 それだけで、明日の夕方の景色は、少し違って見える気がする。

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