朝はいつも通りに始まります。 決まった時間に起きて、コーヒーを淹れて、ニュースを流し見する。
生活に困っているわけではありません。 波風の立たない、穏やかな日々。 むしろ「安定している」と言っていいのかもしれません。
それなのに、ふと立ち止まる瞬間があります。 言葉にできない、ほんの小さな違和感が胸に残るのです。
誰かと比べて苦しいわけでも、何かを失ったわけでもない。 ただ、波のない海面を眺めているような、静かすぎる不安。 満たされているはずの毎日に、ほんの少しだけ影が差すような感覚です。
続きを読む: 【50代の気づき①】安定という名の「凪」の中で満たされている、という静寂
若い頃に想像していた50代は、もっと落ち着いて、安心できるものだと思っていました。 実際、その通りになっている部分もあります。 嵐のような慌ただしさは去り、無理をしてオールを漕ぐ場面も少なくなりました。
それでも、どこか物足りなさが残ります。
贅沢な悩みだと、自分に言い聞かせることもあります。 「何が不満なんだ」と聞かれれば、言い返す材料はありません。 けれど、風が止んでしまった帆船のように、この「進んでいない感覚」を持て余してしまうのです。
周囲の景色と、自分の現在地
周りを見渡すと、同じ海の上で、淡々と航路を進んでいる人ばかりに見えます。 誰もがそれなりに風を受け、それなりに折り合いをつけて生きているように見える。
だからこそ、この感覚は口に出すほどのことではない、と感じてしまいます。
「嵐が去ったのなら、いいじゃないか」 そんな言葉が聞こえてきそうで、自分の中で先回りしてしまう。 でも心の奥では、「本当にこのままでいいのだろうか」という問いが、さざ波のように消えません。

「凪」の時間を受け入れる
50代になると、新しい航路図を広げる機会は減っていきます。 大きな冒険よりも、安全なルートを選ぶことが増えていく。 それは悪いことではありません。経験を重ねた自然な判断です。
ただ、その変化の少なさが**「止まっている」という感覚**を生むことがあるのです。
若い頃は、逆風も追い風も強すぎて、考える余裕がありませんでした。 勝手にふりまわされて、否応なく前へ進んでいた。 今は風が止んだ分、自分の内側の揺れだけが目立ちます。
この違和感は、衰えではなく、**“海況が変わったサイン”**なのかもしれません。
無理に漕ぎ出さなくてもいい
この静かな時間を、どうにかしようとしなくてもいい。 無理に風を起こそうとしたり、意味を探して焦らなくてもいいのです。
ただ、「今は凪の中にいるのだ」と認めるだけで、少し気持ちは軽くなります。
何かを始めなくても、今すぐ進まなくてもいい。 「変わらない景色の中で、自分の位置を確かめている」 それだけで、今の自分には十分なのだと思えます。
今回の気づき
特別なことが起きなくなったからこそ、 自分の内側にある、静かな波の音に気づけるようになった。
何も起きない毎日は、間違いではない
何も起きない毎日は、失敗でも、停滞でもありません。 ただ、人生の速度が変わっただけ。 これまでとは違う、穏やかな流れの中にいるだけです。
この「凪」の時間が、これから次の風につながるのかどうかは、まだわかりません。 でも、同じように海の上で漂っている人は、きっと少なくないはずです。
今日の違和感は、答えではなく、 「少し休め」という合図なのかもしれません。


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