湯気の向こうで、言葉が弾んでいた
休日の昼。用事を片付けた帰りに、蕎麦屋に入った。 外は明るく、店の中には昼の空気が流れている。
たまたま、仕事仲間の若い男性と鉢合わせた。「せっかくだし」と相席させてもらう。 湯気の立つ蕎麦が運ばれてくる。箸を持った瞬間、向かいの彼がこちらに話しかけてきた。
仕事の話が多かった。 最近の案件。うまくいかなかったこと。誰かの言い方。自分の言い方。
「つまりこういうことで」 「自分としてはこう思って」
彼は何度も言い換えたり、補足したりする。こちらの反応を見ながら、言葉で形を作っていく。 休日なのに、平日の続きを持ち込んだみたいな熱量。
それが悪いわけじゃない。むしろ少し眩しかった。

ああ、自分もこうだった
その話し方を見て、ふと思った。 自分も若い頃は、人に分かってもらおうと必死だった。
誤解されたら悔しくて、言葉を足して、説明を重ねて、「違う、そうじゃない」と修正して。 伝えることに失敗すると、自分の価値まで揺らぐ気がしていた。
職場という場所では、分かってもらえないと仕事が進まないことがある。 だから言った。言わなきゃ負けた気がした。言わなきゃ置いていかれる気がした。
いま思えば、分かってもらうことは、生き延びるための必死さでもあったのだと思う。
説明の前に立ち止まる
彼はこちらの表情を伺い、伝わっているかどうかを確かめている。 その姿を見ながら、自分の中に小さな変化があることに気づく。
今の自分は、説明する前に一度止まる。
これは本当に伝える必要があるのか。 休日の昼に、ここまで言葉を使う必要があるのか。 言った自分は、あとで疲れないだろうか。
昔は勢いで言っていた。勢いのまま言葉を出して、後からひとりで反省会が始まる。 「そんなつもりじゃなかったのに」 その“本当”を取り戻すために、また説明を重ねる。
気づけば、関係の中心が「説明」になってしまう。 その消耗を、今は少し知っている。
分かり合えなくなったわけではない
距離ができた気がする。話が噛み合わなくなった気もする。 でも、分かり合えなくなったわけではない。
ただ、説明しなくなっただけだ。 分かってもらえないと悟ったわけでもないし、諦めたわけでもない。
ただ、すべてを共有しなくてもいいと思えるようになった。
若い頃は「分かり合う=全部話す」だと思っていた。 でも今は、「分かり合う=相手の領域に踏み込みすぎない」 そんな形もあると知っている。
説明をやめたら、壊れなかった
蕎麦をすすると、口の中に静かな味が広がる。 説明は、味を濃くする。濃くしすぎると、本来の輪郭が分からなくなる。 そんなことを考えていた。
説明しなくなったことで、意外と壊れなかった関係がある。 むしろ、続いているものもある。
深入りしないことで守れる距離感。 踏み込みすぎないことで保てる温度。
言わないことが、冷たさではなく優しさになる場合もある。 正しさで勝つより、静かな平和を選ぶ。 その選択は、負けではなく、場を保つ判断なのかもしれない。
すり減らさない距離
「分かり合えなくなったのではない。自分をすり減らさない距離を、選び始めただけだ」
向かいの彼は、まだ話している。自分の言葉を信じている。 その姿は、少し羨ましくもある。そして同時に、あの頃の自分の疲れも思い出す。
熱量が必要な時期もある。距離が必要な時期もある。 たぶん、どちらも本当なのだと思う。
休日の昼は短い。だからこそ、説明で埋めない選択もある。
蕎麦屋を出る頃、会話は少し落ち着いていた。 今日もまた、説明しないまま終える出来事があるかもしれない。
でもそれは、何かが終わったサインではない。 自分をすり減らさない距離を、少しずつ選べるようになったサインだ。



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